Moody Crossing

気分屋交差点

「心の病/脳の病」問題と、病者の自己実現について思うこと。

はじめに

ごきげんよう。さっこ(id:moody-theory-sakko)です。
今日は、持病について、絵や写真が少なくて、読むのがめんどくさい記事を書きます☆
わたしの個人的な意見なので、さらっと流してくださると嬉しいです。

では、わたしの持病、統合失調症を通して、思っていること、考えていることを、つらつらと書いてみます。

統合失調症は、心の病か、脳の病か。

まぁ、どっちでも良いっちゃ良いのだけれど。
みんなそれぞれ、すとん、と、腑に落ちる話を選んでたら、良いのです。

去年のメモより。心の病か脳の病か。

心の病になり、最初は
「なぜ」「どのように」ばかりを考えた。
しかし、最近は、そもそも心というものが
「どこに」ということを考えるようになった。

心というものは、身体や自分の内ではなく
外界や他人と接するところにあり、
まなざしを受け、心を持つ者として扱われ、成長し、
あるいは 包み、包まれる
そういうものではなかろうか

少なくとも、単体では成立し得ない
そういうものではなかろうか

精神の内に身体があり、
身体は一つの環境であり、道具である。

(わたしのメモ)


つまり、わたしは、最初、何年かは、「脳の神経伝達物質がいかれたのだ。何かのエラーだ」と考えていて、「心を病んだ」と言うことに反発をしていました。
わたしの心はいかれてはいなかった、と思っているような節もあって。
しかしながら、今では、「心の病でもある」と認めています。
というのは、「心の在り処は、脳に還元されるものではない。オモテや外界と接するところや、そのあいだにもある」という考えに至ったからです。

わたしに影響を与えた「心」観。

なんか、引用ばかりが長い記事になっちゃいそうで、申し訳ないんだけれども、わたしが、まとまった活字を読むのが苦手になっちゃって、前後の文脈をきちんと理解せずに引用している、ということを踏まえて、読んでくださると幸いです。
「心」と「精神」、「魂」などの言葉の使い分けも、厳密ではなくて、適当で、読み替えてしまっているところもあります。
だから、たぶん、怒られちゃうと思う。でも、ブログだから良いか、と思って書いちゃう。

まず、朝日新聞掲載の、鷲田清一「折々のことば」2016.7.14 に、はっとした。

「心をもつ者」として扱われることによって、またそのことだけによって、心は発生し成長するのだ。
下條信輔

乳児にペットに「心」はあるか? この問いは間違っていると認知心理学者は言う。私が語りかけ、また私に語りかけてくる者として相手を扱うことの結果として、「心」は生まれてくる。だから「心」は脳における神経生理的な過程として分析されるより先に、交わりという場面で問われねばならないと。「まなざしの誕生」から。

鷲田清一「折々のことば」朝日新聞 2016.7.14)

鷲田先生のミシェル・セール『五感』引用を思い出す。

鷲田先生(わっしー)については、大昔のわたし、専修は違ったけれど、単位が取りやすいという噂を聞いて、幸福論のレポートでなぜか優を頂いて以来、結構、見つけては、拝読していました。

だからと思うけれども、たまたま、なんかの拍子に、ミシェル・セールの『五感』を引いて、話をされていたことも思い出したのです。

身を擦りあわせるということ。身体がみずからに触れるということ。ここに〈魂〉という、ひとのいのちの原型を見るのはミシェル・セールだ。「皮膚の組織は自らの上に折り畳まれている」と、セールはその著『五感』(米山親能訳)のなかでいう。「折り畳まれたひたもなく、自分自身の上に触ることもないならば、真の内的感覚も、固有の肉体もないだろうし、体感 セネステジー も感じなくなり、真の意味での身体図式もなくなり、静止したような失神状態のなかで意識もなく生きることとなろう」、と。
それ自身に触れるということ。たとえば二つの唇のくっつくところ、噛みしめられた歯のあいだ、閉じられた瞼、重ねられた腿、合わされた掌、額に当てられた指、握りしめた拳のなか、あるいは収縮した括約筋……肉体がそれ自身に触れるところ、そこに「魂」は散在している。「唇は自分自身に接触しているので魂を生みだすのだが、その魂を手に伝える術を心得ており、手はこぶしをにぎりしめることによって自分のかすかな魂を形づくり、すでに魂をそなえている唇に自分の魂をそっと移し与えることができる」。さまざまに移調される一般式の形成、そこにはじめて身体は生まれる。身体にとっては運動するということが本質的なことだ。
皮膚がそれ自身に接するところ、折り畳まれるところに「魂」があるというのは、たしかにとても魅力的な思考だ。「心」を見えない内面としてとらえたり、その奥底について考え及んだりするより、それを表面の効果として語ることで、「心」は見えるものになる。ひとの顔やふるまいや佇まいを眼にすることで、そのひとが浸されている悲しみを知るのだから。

河合隼雄鷲田清一『臨床とことば』)


また、鷲田先生は、折々のことばでもミシェル・セールを引いてらした。

意識はしばしば感覚のひだのなかに身を潜めている。
ミシェルセール

祈るときは合わせた二つの掌のあいだに、口惜しくて歯ぎしりするときは歯と歯のあいだに、悔いて顔をしかめるときは眉間、あるいは瞼のあいだに、魂はある。このように魂は体のいろんな場所に散在すると、現代フランスの思想家は言う。脳の科学とは違い、魂にじかに響いてくる魅力的な思考だ。では他人の皮膚と触れあうときには? 「五感」(米山親能訳)から。

鷲田清一「折々のことば」朝日新聞 2016.1.31)

考えたこと。病気になったわたしの表面に現れた心・魂の様子に気づいた他者の存在があるから、わたしは「心の病」なのだということ。

つまり、わたしを、「心をもつ者」として扱い、わたしのおもてに現れた魂の異変を察知した、家族や友人という存在があったことに気づいたのが、わたし自身の病を「心の病だったのだなぁ」と考えるに至った、大きな理由です。
わたしが病んだ結果、現れたのは、外界とのズレのようなものだったんだけれども、それは、わたしとあなた、あなたというか、親しい人との「あいだ」にあり、わたしの表面にあり……。

脳の病や異常であると考えることは、人に説明する時には、便利でしょう。
また、心が、自分の内部や奥底にあるものとは考えていないというか、そういう意味の心が病んでいるのだとは、わたしは思っていない、ということも、付記しておきます。



病者の自己実現について思うこと。「その時」が急に来ること。「下がる」という生き方を選択しても良いこと。

次の話題も、うまく言えないかもだけれど。

河合隼雄ユング心理学入門」9.自己―3.自己実現における「時」

まず、はじめに、以下、河合隼雄先生の考えを、わたしが要約してみた文章です。

時には自己実現の過程は自我を破滅させるような破壊力をもって生じる。自己実現の時の問題について考えてみたい。
ユングの述べた自己実現の危険性を示す好例:
一介の印刷工という労働者から、多くの苦労の後に、印刷所の経営者にまで出世していった人。彼は仕事に集中し、事業は大いに繁栄した。しかし、ある時、無意識のうちに、幼年時代に絵や図案を描くことが好きだったという記憶が浮かび上がった。彼は自分の印刷所で、幼児的で未成熟な自分の趣味に合わせた製品を作り始め、数年たらずで事業をつぶしてしまった。

人生の後半に、このような重要な時が来ることを、ユングはしばしばくりかえし述べており、40歳前後に、人生の後半に至るための転換期としての重要性があるとする。
人生を自己実現の過程としてみるとき、それはつねに発展を求めてやまぬ動的なものではあるが、年齢的にある特定の時期において、このような傾向が強化される時が存在する。

年齢に応じた内的な発達の段階を示すもののうち、孔子の有名な言葉(不惑―耳従など)は、日本人には馴染み深いが、それは理想的な段階を示しているのに対し、一般的な人間の段階を示しているものとして、グリム童話にある人間の寿命についてのお話をあげることができる。

神様はロバに対して30歳の寿命を与えようとされるが、ロバは荷役に苦しむ生涯が長いのを嫌がり、18年分短くしてもらう。犬も猿も30歳を長過ぎると辛がり、神様は、それぞれを12歳と10歳分短くされた。人間だけは、30歳の命が短いと残念がったため、ロバ、犬、猿から取った年齢分、18、12、10歳の合計を人間に与え、人間は70歳の寿命をもらうことになった。
それ以来、人間は、30年の人間の生涯を楽しんだ後、18年は重荷に苦しむロバの人生を、次の12年は噛みつくにも歯の抜けた老犬の人生を、後の10年は子どもじみた猿の人生を送ることになった。

この延命の結果はあまり幸福ではないが、現代の人間にとって望みたいことは、70年の生涯を、この話のように後半に動物の年として生きるのではなく、あくまで人間の生涯として生きていきたいということではないか。
ここで人間のおかしやすい誤りは、30歳までの生涯を、そのまま70歳まで続けようと願うことである。
いつまでも、30歳までの生涯に固執せず、見せかけの上昇を追うことなく、人生の後半においては、「下がることによって仕事をまっとうする」逆説を生きねばならない。

自己実現の問題が、一般にある年齢においてとくに強く感じられることを述べたが、ある個人にとって、そのような「時」はいつ訪れてくるのかは確定しておらず、本人の思いもよらぬときにやってくることもある。先ほどの経営者の例でいえば、ふと幼児の記憶を心に浮かべて、それを何とかしてみたいと思う「時」、この人の上昇が止まり、急激な落下が始まる「時」。
このような意義深い「時」を時計によって測定できる時間と区別して考えることが重要でティリッヒに習い、前者のような「時」をカイロス(kairos)、後者のような時間をクロノス(chronos)と呼んでおく。

自己実現の問題と、このカイロスの問題は密接に関連している。
今まで外向的に生きてきたひとが、内向的な生き方にも意義を見出さねばならぬとき、あるいは女性との交際に無関心に勉強ばかりしてきた学生が、心を魅せられる女性にふと出会ったとき、これらのカイロスを大切にしないと、このひとは自己実現の道を誤ることにもなる。しかし、カイロスをあまりに大切にしすぎて、クロノスを忘れてしまうと、生きてゆくために必要なペルソナを破壊する危険もある。勤務時間、面接時間、劇場の開演時間、恋人との約束時間、これらすべてのクロノスを守ることは、一般の社会人として必要なことになっている。そして、なかにはクロノスばかりを大切にして、その中に流れるカイロスには無関心になっていまっている人もある。実のところ、恋人に会うとか、素晴らしい芸術の観賞などは、まさに「その時」にすべきであるのに、これらをさえクロノスに従わせねばならぬのが、現代の悲劇かもしれぬ。

後略

河合隼雄ユング心理学入門」9.自己―3.自己実現における「時」 部分要約

病気になる前の生涯に固執せず、見せかけの上昇を追うことなく、「下がることによって仕事をまっとうする」時、が、急に来るなぁ、って。

わたしが、統合失調症になったのは、29歳の冬のことで、あまりにも突然だった。
わたし自身は、キャリア志向ではないけれども、公認会計士試験の勉強をしたりとかならしてたよ。
最初は、まじめに働く気なんか、全然なかったんだけれども、こういうの楽しいなぁ、って、働いてから思ってた。

でも、勉強どころか、発病によって、外に出て、働くことが出来ない上、普通の日常生活自体が難しくなった。
人生の後半ではなくて、まだ若いのに、一旦、何もかもが潰れてしまったように感じた時が来たのです。
(今は、元気で働いてるよ☆)

でも、一般の人たちでも、いずれは、下がる生き方をしなければならない時がやってくる。
とすれば、病気によって、上昇を追うことが出来なくなった瞬間が来たとしても、絶望することはないのかなぁ、なんて思います。


一般の社会人として必要な「クロノス」を守ることが、病者に可能かという疑問から連想。

答えは否だろう、と思うけれども、可能な状況であれば、努力する必要があると思います。
自己実現をそこ(現代社会とのつながりの面みたいな)で、するかどうか、という問題もあるけど。

河合先生があげたグリム童話の人間の寿命の話、ロバや犬や猿ではなく、「人間の生涯」として最後まで続けて生きたいという理想みたいなのがあるのかも、というのがあったけれども、自分にとって、人間らしい人生や生活がどのようなものであるのか、立ち止まって考えてみる必要がある。

って、ちょっと、この記事が長くなってきたので、ダレてきてしまった。

ちなみに、さっきの河合隼雄先生の要約の元の文章は、まだ30代の頃に書かれた話です。
今のわたしと同い年くらい。

おわりに

ああ。結局、引用文を打つので疲れてしまって、自分の考えが、しょろっとしか出ていない記事になってしまいました。
ごめんなさい。また、続きを書くかもだし、書かないかもだし。

でも、わたしの病気観や病者としての自己実現観についてのベースにあるものは、上記の引用枠の中の文章みたいなものです。

最後に、記事に出てきた本とかの商品ページを紹介しておきます。
わたしにはお金は入ってこないから、安心してクリックしてね♪


まなざしの誕生―赤ちゃん学革命

まなざしの誕生―赤ちゃん学革命

臨床とことば (朝日文庫)

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五感―混合体の哲学 (叢書・ウニベルシタス)

五感―混合体の哲学 (叢書・ウニベルシタス)

ユング心理学入門―“心理療法”コレクション〈1〉 (岩波現代文庫)

ユング心理学入門―“心理療法”コレクション〈1〉 (岩波現代文庫)



あと、わたしのメモ類は、Rollbahnの方眼ノート、引用・要約類は、クロニクルブックスのノートに書いてます。
可愛い文房具は、テンション上がるね!

なんでノートに書いてるかというと、頭悪くなって、内容が入ってこないから、本を読む時に、メモが必須なのです。不便だよ。

おしまい。
ばいならヾ(・ω・o)

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